「心の内に」 ローマの信徒への手紙14章13節~23節

今日、この主の日、わたしたちに与えられました聖書は、ローマの信徒への手紙からであります。この手紙は、今わたしたちに呼びかけています。

「あなたは自分が抱いている確信を神の御前で心の内に持っていなさい。」

紀元一世紀にローマにいるキリスト者たちにパウロという人物が手紙を書き送ったその中の言葉であります。

当時、パウロ自身はまだローマに行ったことはありませんでした。ですが、パウロは、どうしても伝えたいことがあったのでありました。その重要な点をパウロは、このローマの信徒への手紙に著したのでありました。

パウロの生きた時代に、ある固有の宛先を持った手紙の言葉でありますが、これはあらゆる時代の人々に、またあらゆる場所に向かって語っているのです。もちろんその時代、その場所の背景というものがあって、それらに心を配らなければなりませんが、その目的は、パウロが目指している、いつもいつまでもなくならないものを知るためであります。パウロは、このいつもいつまでもなくならないもの、それは、神の愛だと述べています。

少し長いでありますが、ローマの信徒への手紙8章31節から39節には、小見出しが「神の愛」とあってこう記されています。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえを惜しまず死にわたされた方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれがキリストの愛から引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

すべては変わって行くというこの世界にあって、いつも、いつまでも変わらないもの、それは神の愛です。

神の愛は、キリスト・イエスにおいて全く明らかに現わされました。

人々の救いのために苦しみを受けられ、十字架の死につかれますが、復活されることにより、神の愛とゆるしが、大いなるものであることをキリストは明らかにされたのであります。

このキリストの愛からだれもわたしたちを引き離すことはできない、と言うのであります。

この世では、別れがあり、引き離されることがあり、喪失の悲しみと痛み、また、苦しみがあります。しかし、パウロは、だれもこのキリストの愛から引き離すことはできないと述べます。それは、だれのことを言っているのかと言うと、「あなた」のことであり、「わたしたたち」一人ひとりのことであります。

悲しみと苦しみの大きなところに、いつもいつまでも変わることのないキリストの愛の風が吹き、キリストの愛の花が咲きをこぼれているのであります。

パウロの生きた当時の重大問題は、現在の重大問題であります。

もともとパウロは、ユダヤ人として、律法学者のファリサイ派として、キリスト者に迫害の手を加えることに力を注いでいました。かつてのパウロは、自分の正しい論理、正論により生きていたと言えるかもしれません。

しかし、神の愛とゆるしが、パウロ全体をとらえ、変えて行ったのであります。神の霊、聖霊が、彼を満たし、たとえ苦しくとも、また、たとえ乏しくとも、幸いで満たされている神の愛とゆるしに生きる大いなる喜びがある。その道を示します。

パウロは、キリストの愛を受け止めた者の歩む道を指し示します。それは、こうでなければならないというものではありません。わたしの目の前に開けている神の愛とゆるしのいつくしみ深いことに目を向けることであります。

今日の聖書箇所は、ローマの信徒への手紙14章13節から23節です。新共同訳聖書では「兄弟を罪に誘ってはならない」とあり、13節にはこうあります。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや妨げとなるものを兄弟の前に置かないように決心しなさい。」

文の始めの「従って」というのは何からの続きを述べているかと言うと、「わたしたちは、主のものだ」ということであります。わたしたち一人ひとりは、主なる神のために生き、主なる神のために死ぬのです、とパウロは述べて、「だから」と続けているのです。

また、「兄弟」というのはキリスト者たちのことと言えますが、身近にいる人と言うこともできます。それは、今日の聖書の時代背景としては、ユダヤ人もギリシャ人もということでありますが、つまずきとなるものや、妨げとなるものに心を配り、注意するようにということであり、そして、それらの「つまずき」や「妨げ」を自分の心の内にいつまでも置いておかないようにということであります。

光が入るように、よい種が育つように、子どもたちが育つように、それらのものを取り除き、神の愛とゆるしに委ねるのであります。

14節にはこうあります。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。」

ここでパウロは重要なことを述べています。それは、キリストと共にあり、キリストと一つとなるように歩み、キリストと生きて行こうとすると、そこに、キリストを中心とした生活が生まれ、自分の立つ位置が定まってきます。キリストの愛による気づき、キリストの愛による学びが生まれ、確信へと向かって行きます。すると、それは汚れている、汚れていないというものは何もないということに至るとパウロは言うのです。

パウロがこのように言うのには、律法によって「汚れている」、「汚れていない」という律法の裁きがあります。しかし、キリストの愛とゆるしからみると、そのようなものは何もなく、ただ、その人がそう思っているならばそうなのだと言うのであります。ということは、事実は事実としてそこにそのままあるのですが、その意味をみているのはその人自身ということであり、キリストは、その人自身を、助け、救い、お守りくださっているというのであります。

15節「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めているならば、あなたはもはや愛に従って歩んではいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストは、その兄弟のために死んでくださったのです。」

パウロは、ここで「食べ物」について取り上げていますが、そのことにより、兄弟の心が傷つくのであれば、ほかの道があることに心を向けてみなさい、と言うのです。多いとか、少ないとか、良いとか、悪いとかではなく、キリストの愛とゆるしを共に食することができるようにということであります。

神が働いてくださることを覚え、それを無にしてはなりませんというのです。キリストの十字架はその人のためにであり、あなたのためにであります。

16節「ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」

しばしば「善いこと」「正しいこと」が人を倒し、人を傷つけてしまうことがあります。すべてのことを主に委ねる決断と決心、その勇気を主に対して持つことができるようにということであります。

17節「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」

先に述べられた「食べ物」「飲食」それ自体はとても大切なことですが、「神の国は」とパウロは言います。神の国とは、神の愛とゆるし、キリストがそこにおられるということであります。そして、それは、かつてでも、やがてでもなく、今ここに、神の愛とゆるしがあり、キリストがおられるということであります。ですから、正しいと認められ受け止め、受け入れられ、平安と平和が与えられ、この上ない喜びがあります。

聖霊は、あなたを、この神の国へと導こうとされるのです。ですから、つまづきと妨げを置いて出入りができなくなってしまわないようにと言うのです。このようにして18節、19節「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」

キリスト・イエスによって、パウロは全身全霊を受けいられるというだれも奪うことのできない愛とゆるしに感動し、その喜びの中を生きていました。

彼の生きていたのは、恐れと不安の中ではなく、また、恐れと不安から生じるものの上にいたのでもありませんでした。

主なる神に在って、大いに喜んでいたのでありました。それが神に喜ばれることであったからです。

そしてそこから目指すところ、追い求めることが与えられたのであります。パウロは閉じることなく開いたのであります。平和や平安、向上に役立つことにであります。

20節、21節「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘うものには悪い物となります。肉も食べなければ、ぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」

パウロの強調点は、罪に誘うようなことがなくなるよう、神が受け入れてくださっていること、しかも全ての人を信仰によって義、義しいとしてくださっていることを思い起こすことです。

キリスト・イエスにより、罪ゆるされた者とされ、愛されたのですから、その愛をもって共に分かち合って歩むことを望んでいるのです。

22節、23節「あなたは自分が抱いている確信を、神のみ前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動行動していないので、罪に定め定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」

この確信は、自分自身のためにしか信じることができません。そして、神のみ前にしか信じることができません。その信仰において、あなたは全くただ一人であり、全く神にのみつながれているからであります。

そして、この確信はただひとりなる主なる神に支えられているのであります。あなたの心の内はこのことを知っています。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。」