「命を与える糧」 ヨハネによる福音書6章22節~33節

「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

この地上を歩まれた主イエス・キリストは、人々にそうお語りになりました。

八月に入り、再び疫病の感染拡大に強い注意が促され、わたしたちは戸惑いさえも覚えておりますが、それでも、例年よりは遅い梅雨明けを迎えました。樹々の多い公園では蝉しぐれ。かつて、この夏の空の下から、空爆によって多くの人々の命が奪われて行きました。言うまでもなく、空爆は人間が造り出したものでありました。そのために多くの、実に多くの方々の暮らしが破壊され、命が取り去られ、恐れによって、罪と滅びがこの世界に延び広がったのでありました。大きな恐れが蔓延し、人と人との間に恐れという病が広がったのでありました。

わたしたちの主イエス・キリストはかつてこの地上を歩まれ、町や村を巡られ、それは、場所を選ばず、ということでありますが、病を癒されました。足の不自由な人、手の不自由な人、目の不自由な人など、多くの病を癒されたと福音書にはあります。そして、その所々において、もう一つの大きな病が癒されたのであります。人の恐れという病が、神の愛によってゆるされ、癒されたのです。人々の恐れが広がってゆく中、主イエス・キリストは、場所を選ぶことなく、神の愛を注ぎ人々の魂の渇きを癒されたのでありました。

ある時、主イエスは、弟子の一人に、「こんなに多くの人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とおっしゃったことがありました。それは、一人の弟子を試みるためであり、主イエスは、ご自分で何をしようとしておられるのかをすでにご存知でありました。 主は、病の人たちを癒されました。

そのなさったしるしを見た人々が、群衆となって山の上、野原にいる主イエスと弟子たちのもとに押し寄せて来たのです。そこで、主イエスは五千人の人々にパンを裂き、魚を手に取られ、皆に分け与えられ、人々が満腹してもなお余りがありました。それは、主イエスのなされた奇跡ということができますが、飢え渇く人々に神の愛とゆるしが現されつつある、そのしるしと申し上げることができます。すべてちょうどよい時に、すべて足りているという主イエスのなされることを、感謝を持って受け止めるのであります。

主イエスは山を退かれ、夕方になったので、弟子たちを舟に乗せ、湖の向こう岸に行かせます。

そして、本日の聖書ヨハネによる福音書6章22節「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気がついた。」

大勢の人々が満たされたあと、湖を、水の上を渡って行く、主イエスの弟子たち。しかし、その船に、主イエスは乗っておられなかったのです。

主イエスは、弟子たちの舟を確かに守り導かれて、一緒に舟に乗ってはおられせんでしたが、そのことをなされました。そのこととは、進もうとする弟子たちに「恐れることはない」とおっしゃったことであります。

主イエスは、舟に一緒にはお乗りになっておられない。しかし、その御声をかけになって、目指す地へと弟子たちを導かれたのであります。

わたしたちのこの地上での日常生活は、この主イエスと弟子たちの関係のようであります。

わたしたちの家に、わたしたちのいるところに、主イエスは一緒にはおられないかもしれない。そのように見え、そのように思うかもしれない。しかし、主イエス・キリストは、救い主として御声をかけてくださっておられ、そのことの前に、わたしたちが、知らず知らずに口を挟んでしまい、また、自分の思いだけに執着し、それがまた次から次へと膨らみ、舟を重くしてしまっているのかもしれません。

主イエスは、人の罪の重みを取り除かれました。

苦難を受けられ、十字架の死より復活させられ、神の愛とゆるしに生きるようにしてくださったのです。罪の重みを取り去るかのように、それは、聞こえるかもしれない、しかし、場所を選ばず、「わたしだ。恐れることはない。」と主はお語り続けておられるのです。

弟子たちが、主のその御声を聞いて目指す地に着いた翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、弟子たちだけで出かけたと見て、思い、気がついたと言うのです。

23、24節「ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいてきた。群衆は、イエスの弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを探し求めてカファルナウムに来た。」

主イエスの弟子たちの舟には、主イエスは乗っておられない、と群衆には見えました。そこで人々は、自分たちも小舟に乗って主イエスを探し求めたというのであります。その小舟は、主イエスを探し求める人々、癒されることを求める人々、また、食べるものを、食べる事を探し求める人々を乗せて、水の上を進んで行きます。湖の水面を人々の思いが揺れ動いています。

そして、25節「湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ(先生)、いつここにおいでになったのですか。』と言った。」

人々は、主イエスを一時見失って探しておりましたが、主イエスの弟子たちの後を辿って行くと、見つけたというのであります。つまり、主イエスの御言葉を聴く者たちを手がかりにするようにして捜し求め見つけたということであります。

主イエスは人々に答えておっしゃいました。26節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

主イエスは、人々の思いをご存知であり、「捜している」という人々の行動は、どこから来ているのかをご存知でありました。

ということは、この時代にあって、また、この時ここにおいても、主イエス・キリストは、わたしたちの思いをご存知であり、わたしたちが何にこだわり、何を手放しているかをも受け止めていてくださり、わたしたちの行動が恐れからなのか、不安からなのかをご存知であるということであります。

主イエスは、それを咎めようとされるのではなく、ただ見つめてくださり、この気持ちを知っていてくださるのです。

そのことを通して、人は変えられることを主イエスは、父なる神との祈りの交わりを通して与えられていたのでありました。

そこで、その祈りから得たこと、果実を、主イエスは伝えます。27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなた方に与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

主イエスは、この世においておっしゃいます。「朽ちることなく、いつまでもなくならないもののために。」

旧約聖書に登場いたします神の御言葉を告げ知らせる預言者イザヤは、朽ちることなくいつまでもとどまるものをこう語りました。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。なぜ、糧にならんならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」

主イエスは、このことのためにと言って、一点に関心を集中することを勧めています。それはその一点にすべてのことはつながっていることに目覚めることでもあり、朽ちることなく、いつまでもなくならないもののために生きなさいということです。

苦難と十字架の死、そして、復活により、主イエス・キリストは、神の愛とゆるしが、いつもいつまでも大いなるものであることを現わされました。父なる神は、そのことを、人の子、すなわち、主イエスが行い実現したことを証明し、真理であることを明らかにされました。

28節「そこで彼らが、『神の業を行うには、何をしたらよいでしょうか』」と言いました。

主イエスの御言葉を聞く人々は尋ねたのであります。「わたしたちの魂が慰められ救われるために何をしたらよいでしょうか。」

人々の生き、暮らすその地面は、恐れと不安で揺すられ、湖の水面のように揺れ動き、わたしたちの身はすくみ震えます。この時、「わたしたちは何をすべきでしょうか。」

29節「イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』

「何をすべきでしょうか」という問いに、主はおっしゃいます。

『信じること』。

何をかと言うと、父なる神がお遣わしになった主イエス・キリストを、です。このお方は、救いの主であり、あなたを、また、わたしたちを救う御言葉です。

そして、このお方を信じるということは、人間の業ではなく、神の業であり、人間の所有、自分のものとして持っていることではなく、神のなされる神の御業であるので、わたしたちは、この神の御業の中に今あるのです。そして、神の御業であるので、神があなたに自由に働かれるのです。

そこで、人々は、主イエスにさらに尋ねます。33節「彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と(旧約聖書 出エジプト記16章に)書いてある通りです。」

人々は、信じるために目で見て、食べることができるようなしるしを求めました。しかし、このしるしを求めること自体が、神の愛とゆるしから遠く離れつつあることを現わしています。それは、神の愛を信じられず、神のゆるしを信じられない、ということであります。 そして、神がわたしたちと共におられること、聞こえなくとも語り続けておられることを信頼できないということであります。その重さを手放すことができるよう、主イエスはおっしゃいます。

32、33節「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

人々が、約束の地を目指して荒れ野を行くために、主なる神は、モーセという人物を立てました。道行くその途上、命の糧を人々に与えたのはモーセではなく、神であると主イエスはおっしゃいます。神は、約束の地を目指して進む者、恐れと不安、時には、不満、不平さえも抱え、荒れ野を進む者たちに、パンを、命の糧をお与えになられます。主イエスは、それこそがまことのパンであり、あなたに与えられたものであり、それによりあなたは生きるとおっしゃいます。

神のパン、いのちの糧は、降って来るのです。

神が造られ、神が御手に取られ、神が裂いて、それぞれに分け与えられるのです。天から、神から降ってくるものはすべてよきものであり、わたしたちを潤します。

わたしたちの渇きは、癒され、わたしたちの魂は満たされます。

「神のパンは、天から降って来て、世に(この世界に)、命を与えるものである」からです。