エフェソの信徒への手紙2章11節~22節 「神の住まいとなる」

「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」

今日、わたしたちに与えられました聖書は、「キリストにおいて」そして「霊の働きによって」と述べられています。「キリスト」というのは「救い主」を意味しています。そのことからすると「救い主において」また「救い主にあって」と言い換えることができます。そして、その救いの主は、どなたかと言うとイエスである、ということであります。

わたしたちの生きる人生、その時々において、主である大切な人、大切なもの、大切なこと、は色々あるのかもしれません。

そして、今を生きるわたしたちにおいて、わたしたちを救う主は、このお方であるということを「キリスト」という言葉は表しています。そのキリストは イエスであり、救い主はイエスであると聖書は語っているのであります。

今日、わたしたちに届けられた聖書は、新約聖書エフェソの信徒への手紙。この手紙を書き記したパウロという人物は、獄中にいました。彼が捕らえられたのはこのイエスが救い主であると公に宣べ伝えていたからであります。パウロは、当時ユダヤの中にあってはユダヤ人の中のユダヤ人、律法学者ファリサイ派のファリサイ派。知識においてもその地位においても、ローマの市民権を持ち、この世的に評価するならば申し分ないと言えるかもしれません。しかし、そのパウロはその与えられたものを超えて、そして、さらに与えられたものを大いに用いてくださるお方によって救われたのでありました。

それは、パウロがつくり出したのではなく、人間がつくり出したのではなく、人の努力によってでもない、救い主が、パウロを引き出してくださったのでありました。

パウロを突き動かすこととなったその力は、人の知識によるものではなく、地位によるものではなかったのであります。それまで、パウロはそれらのものを熱心に求め続け、実績を上げて来たのではありますが、それらのものを突き抜ける大きなものに、内なる喜びの声を上げていたのでありました。

その内なる喜びは恵みとなって与えられたものでありました。

恵みは、この世の、また、心の闇の中で光り輝いています。わたしたちは、この恵みによって救われたのであります。そして、この恵みは、救い主が、キリスト・イエスが、お与えくださったのでありました。

すべては神の賜物であります。

そのことを「霊の働き」、「聖霊の働き」は、確かなこととして証しするのです。キリストにおいて、霊の働きにおいて、災いの多いこの世において歩んで行くことができるよう、パウロは獄中から書簡を通して語るのです。

今日の聖書は、新約聖書エフェソの信徒への手紙2章11節から22節。新共同訳聖書では「キリストにおいて一つとなる」と小見出しが付けられています。11節「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のないものと呼ばれていました。」

ここにユダヤ人としてのしるし、割礼を受けているかいないか、そして、受けてない人々は異邦人として人々が区別されているという社会的宗教的区分が述べられています。

そして、12節にも以前のこととして、「また、そのころは、キリストとかかわりなくイスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」とあります。

「以前は」イスラエルの民に属するという国籍とは、無縁であつた。その律法、すなわち、「約束を含む契約」とも関係なく、よそ者として福音を知らずに、神もなく生きていた「以前は」というのです。

そのため、あなた方は希望を持たずにこの世を生きてきたというのです。

パウロは、他の聖書箇所でこう述べています。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。」そして、パウロはこれに添えて「主に喜ばれるものが何かを吟味しなさい」と言います。

主の喜びが、わたしたちの中にあります。

その喜びを解き放ち、何のために来たのか思い出しなさい、ということであります。

ユダヤ人として、しるしがあるかないかという制限ではなく、キリストにおいて、そして、霊において、自由であるのです。

ですから13節でこう述べます。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」

ここに「以前は」とあってかつて遠く離れていたと言い表されていますが、今、この時において、近い者となったというのです。

時間を直線的にとらえるなら、過去と未来の間に現在があって、過去ではこうであったが現在はこうであると言うことができます。

そして、それだけではなく、遠く離れているようだけれども、今、すぐ近くにおられるお方、キリスト・イエスにおいて、あなたは救い主に近い者であるというのであります。

「キリストの血」というのは、人々の救いのため、茨の冠をかぶせられ、十字架の死につかれた出来事。その流された血は、神に捧げられ、それによって罪赦され、わたしたちは救われたのであります。このただ一度だけ、キリスト・イエスの血によって、わたしたちは死に、そして、生きることになったのであります。「キリストの血」。それほどまでに、わたしたちは人は罪に縛られているということであります。

罪とは、無条件の愛を信じられないということにあります。

しかし、今、キリスト・イエスの愛が、わたしたちを解き放ち、自由にしてくださる、その光が近くなったことにより、届いているというのであります。

そして、2章14節から16節「実に、キリストは、わたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

近くにキリストがおられ、このお方は「平和」であります。穏やかであり、安らぎがあり、静けさがあります。キリストの平和はそれらをもたらし、それだからこそ、力があります。制限する力ではなく、解く力です。

そして、二つのものを一つにします。キリスト・イエスにおいて、敵という隔ての壁を取り壊すのであります。敵意は、恐れからであって、その恐れをキリストの愛は取り除かれたのであります。
それは、この世のさまざまな律法により、愛とあたたかさを失い、本来の道から外れつつある人々を引き戻すことであります。

パウロは、人を恐れの中に縛り続け、それが正しいと思わせる「規則と戒律ずくめの律法を廃棄された」と述べます。

パウロは、人々の恐れから生じた制限によって、分け隔てていた人々が、キリスト・イエスの愛と平和によって、一人の新しい人が造り上げていくのを見ています。

人と人、そして、神と人とが、キリスト・イエスの十字架を通して交わり結ばれて行くのです。十字架の縦と横の交わる点はキリストの愛です。神と和解し、神のお遣わしくださったキリスト・イエスの近くで交わり、生きることが今できるのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じ、それは、あなたという人の中で生じる神の働きであり、霊の働きであります。

すべては神から出ることであって、神が、救い主を通して、わたしたちを神と近く親しく交わる者としてくださったのです。わたしたち人間の恐れから生じるものを無効にし、和解させてくださったのです。

17節「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせました。」

救い主は、「福音を告げ知らせてくださった」とパウロは言います。この地上で歩まれた救い主キリスト・イエスは、町や村を巡り、病を癒し、悪霊追い出し、会堂で教え、神の国を宣べ伝えられました。それは、良い知らせであり、輝く恵みでありました。

救い主イエスによって、人が生きるその場に、幸いな平和が訪れたのです。苦しむ人、悲しむ人に、キリストにより、穏やかさが戻って来たのであります。

良い知らせ、福音は、平和をもたらします。

パウロは、ユダヤ人と異邦人と区別し、分離されていた両方のものが一つの霊に結ばれ父なる神に近づく、と述べます。それは、人と人、そして、神と人との間で起きるのです。

一人ひとりに分け与えられた一つの霊に結ばれ、導かれて、人がその本当の家へ帰っていくように、神に近づくことができるのです。

19節から21節「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、人や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」

パウロは、恐れから生じてくるものではなく、喜びから生じてくるものに目を向けていると言えます。

それは、神が造られた一人一人が違っていることから生じてくる喜びであって、優劣はありません。キリストにあっては「外国人も寄留者もありません」とパウロは言います。神の喜びは、「神の家族」であり、それは、聖なる、すなわち「神の神殿」であります。

パウロは、キリスト・イエスによって変えられたのであります。そして、救い主は、どのように一人ひとりを見ておられるのかを知り、その眼差しは、喜びのためであり、幸いのためでありました。

そのことをつくり上げて行くのにはどうしても必要なものがありました。建物に例えると、土台となるもの、また、かなめ石となるものであります。すべてのものがこれにかかって来るのです。上に建てられるすべての形と重力を支えることとなる、すなわち、すべてのことを受け止めている土台です。わたしたちの目には驚くべきことでありますが、これこそが大いなる喜びです。救い主キリスト・イエスが、すべてを受け止めてくださっているのです。

そして、この主イエス・キリストの建物全体は、成長して行くのであります。今ここに、主がおられることを学び、その魂は成長して行きます。なぜなら22 節「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」と彼は述べます。

「住まい」とは、そこにおられるということであり、すぐ近くにおられるということであります。共に建てられ、住まうことによって、わたしたちは、天へと向かって成長して行き、引き上げられます。そこにあるのは、聖霊の働きであり、キリスト・イエス、救いの主イエスの喜びであり、わたしたちの希望です。

この「住まい」、キリストと共にあることに、わたしたちの幸いはあります。