使徒言行録24章10節~21節 「復活する希望」

「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」

キリスト・イエスにより使徒となったパウロは、そのように語りました。

そして、その語られた語気、話す言葉の調子は鋭く、また、すがすがしいものでありました。

パウロは、もともとユダヤ人のファリサイ派という集団に属し、律法を学び、その指導者的な立場にいました。そして、もともとキリスト者はユダヤの人々の間で大きな混乱をもたらすと彼は考えていましたので、キリスト者とあれば、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行しようとしていました。

ところが、その旅の途上で、十字架の死より復活されたキリスト・イエスに出会うのであります。突然、光に照らされたパウロは、地に倒れてしまいます。呼びかける声に、パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町へ入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

光によって、光につつまれる、すると、その行くべき道が示されるのであります。もとより、キリスト者とあれば誰かれかまわず迫害を加えていたパウロですが、それは、「この道に従う者」を見つけ出し、エルサレムに連行するためでありました。かつて、パウロが、苦しめ、虐げ、害を加えていたキリスト者たち、それは、キリスト・イエスに従う道を歩んでいた人々でありました。

しかし、その「道」であるキリストが、光を照らし、光で包み、そして、光を受けとめさせることにより、その進む道、なすべきことが知らされるのであります。

この世の不確かな不安の中で、わたしたちは、闇からではなく、光から多くのものを受けとめることが大切なことであります。

そして、その光は、今、わたしたちの歩んでいる道をも照らしているのであります。

パウロは、その光なるキリスト・イエスを宣べ伝える者となります。しかし、もともと、キリスト者を迫害していた者であることを誰もが知っていたので、キリスト者たちは、パウロ恐れ、疑います。それにもかかわらず、主なる神は「この者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」とおっしゃって、主は、パウロを、キリスト・イエスを宣べ伝える使徒として立てるのであります。そして、パウロは遣わされ、地中海世界各地に福音を伝える者と導かれて行きます。

ある所では聖霊によって行く道を止められ、また、ある所では聖霊によって行く道を進み、そのようにして歩むことが、自分の頭で計画したことよりも、よりよいことであったことを後で知ることにもなるのでありました。

何故なら聖霊は、光なるキリストを証しするからであります。救い主が、光を投げかけ、光を注ぎ、その大いなる愛とゆるしにつながるように導かれるからであります。

しかし、人には恐れがあります。パウロは聖霊により、光なるキリストに導かれて行きますが、多くの困難に出合います。どれも思ってもいなかったような時に。旅の途中では、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人の難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

時代や環境は異なりますが、現在も同じような難、むずかしいこと、わざわい、またさまざまな傷を経験することがあるかもしれません。

パウロは、それらを数多く、しかも、いろいろな仕方で経験をすることによって、弱さは弱さでよく、しかし、そこにキリストの光が注がれ、その光から見ることを重ねて行ったのでありました。そしてそれは、神の愛とゆるしにつながっていることを知ったのです。

パウロは、ある手紙の中で述べました。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

それは、キリスト・イエスから与えられた闇から見るのではなく、光から受けとめる、この世界でありました。

パウロは、復活のキリスト・イエスに出会い、そのよい知らせを運ぶものへと変えられて行くのでありますが、そのことを強く、こころよく思わない人々がおりました。思わないということだけではなく、ひどくねたみと憎しみを抱き、パウロに対し殺意さえも持っている人々がおりました。そのものたちはかつての同胞ファリサイ派の人々であり、また、ユダヤのサドカイ派の人々でありました。 彼らは、恐れを抱き、また、その恐れを増幅していたのでありました。

ある時、そのユダヤの人々は騒ぎ始め、喚き立て始めたので、当時、ユダヤを属州としていたローマ帝国の千人隊長は、パウロを取り調べることにしようとしますが、パウロが生まれながらのローマの市民権を持っていることを知って恐れます。行き過ぎた取り調べに当ってしまうと思ったからです。

そこで、千人隊長はユダヤの最高法院にパウロを取り調べるように伝え、招集を命じます。最高法院には、ユダヤのファリサイ派とサドカイ派の議員たちがいました。そのことを知ってパウロは、議場で声を高めて言いました。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」 パウロはこう言うと、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂してしまいました。

サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めていたからです。

論争は激しくなり、パウロの身を案じた千人隊長は、パウロを人々の中から力づくで、兵営に連れていくよう兵士たちに命じました。ユダヤの人々は、パウロ暗殺計画を立てますが、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営にいるパウロと千人隊長に知らせます。そこで、千人隊長は歩兵二百名、騎兵七十名と補助兵二百名をもってパウロを護送することを命じます。行き先は、ローマから派遣されているユダヤ州の行政長官、総督フェリクスのもとでありました。その手紙には次のような内容が書かれていました。

「閣下、この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連れて行きました。ところが告発されているのは、ユダヤ人の問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことがわかりました。しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと命じておきました。」

その数日の後、ユダヤの大祭司と長老数名、そしてその弁護人が来て、総督にパウロを訴え出てこう言いました。「この男は、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者であります。この男は、神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。」

そこで、今日の聖書箇所、新約聖書の使徒言行録24章10節から13節で、総督フェリクスはパウロに発言するように促し、パウロは自分自身のことを喜んで弁明しますと言います。
パウロは、「エルサレムに上ってからまだ12日で、神殿でも、会堂でも、町の中でも、誰かと論争したり、群衆を扇動したりするのを誰も見た者はいません」と言います。

そして、パウロを「告発する者たちは、この件について何の証拠も挙げることはできません」と言います。
パウロは、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、そして、ローマの皇帝に対しても、 何も罪を犯していないと述べているのです。

しかし、ただこのことは、とパウロは言います。14節から16節「しかしここで、はっきり申し上げます。わたしは、彼らが、『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと、預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけでわたしは、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」

パウロは、ユダヤ人としてユダヤの中で生きて来たと言うのです。神を礼拝し、律法の書、 預言者の書を読み信じて来たのです。そして、ファリサイ派としても復活を信じ、その希望を抱いています。

神は広い心をもって招いてくださることをパウロは経験していました。それは、パウロの意識を正しい者、正しくない者、という制限から解放し、神の愛とゆるしを現わす復活へつながっています。この希望は、わたしたちを欺くことがありません。
パウロは、この変わることのない希望が、キリストの光に照らされ輝いている、そのところから語ります。

17節から21節でパウロは弁明しています。自分は、同胞ユダヤ人に救援金を渡し、供え物を献げるために戻って来たこと。神殿では群衆もなく、騒動もないこと。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人がいてこの人たちが、パウロ自身を見つけ、人々を扇動し騒ぎを起こしたこの人たちこそが出頭すべきだったのではないか、とパウロは言います。

さもなければ、ここにいる人たち、すなわち、ユダヤの大祭司と長老数名、そしてその弁護人が、最高法院に出頭していたパウロにどんな不正を見つけたか、今、言うべきだとパウロは述べます。その時の最高法院は復活についての論争がわき起こり、大騒動となりその大混乱の中、パウロは保護され護送されるため引き出されたのでありました。

パウロは、復活の主キリスト・イエスの愛とゆるし、それを信じ信頼できないという罪から救われ、大胆に語っているのです。

「わたしはあの最高法院の中に立って『死者の復活のことで裁判にかけられているのだ』と叫んだだけです」とパウロは、復活の主キリスト・イエスにその道を示されていたのです。

どのようなことがあろうと、どこにあっても、「わたしはあなたと共にいる」。

キリストの光に照らされ、キリスト・イエスの言葉を聞き、信じ、その道に従う者は、神がつくられた永遠の命を得て、死から命へと移るのです。

命をつくられた神が、罪ゆるされ、わたしたちは、「やがて復活するという希望を神に対して抱いています。」