ルカによる福音書19章1節~10節 「捜して救う」

「人の子は失われたものを救うために来たのである」。 主イエス・キリストの語られるこの御言葉にはご自身のことを語りになるその力強さがありました。

「このわたしは」「何のために」ということを主イエス・キリストが明らかにお語りになられたからです。

梅雨の暑さを覚える季節にも、疫病に対する不安を拭いきれずにいるそのような歩みが続いています。この時、またこの時を通して、人それぞれに様々な思いを抱かれていることと存じます。

わたしたちの魂は、頼むべき方に心を向け、心を合わせることを改めて指し示されているのではないでしょうか。わたしたちの魂が、慕い仰ぎ望むのは、神であり、わたしたちには、この「神に依り頼む」ということが開かれているのであります。

主なる神は、わたしたちの道を、わたしたちにお示しになられ、神に従う道を教えてくださいます。そして、主なる神は、選ぶべき道を示してくださると、依り頼むのであります。

しかし、そう願っても、道が示されていると依り頼んでいても、その心は貧しく孤独、と感じられることがあるかもしれません。

しかし、それでも主なる神は、悩む心を解き放ち、痛みから私たちを引き出してくださるのであります。神に身を寄せる者の魂を主はお守りくださり、助け出してくださいます。神は、ご自身に望みを置く無垢でまっすぐなものを顧みて、お守りくださるのです。

旧新約聖書を通して証されている神は、神を仰ぎ望み依り頼む者をすべての苦難から贖ってくださいます。「贖う」というのは、「買い取ってくださる」ということです。または、「身の代金を払って身受けする」ということを意味しています。そしてそれは、離れてしまっていたものをすぐ近く、もとに引き戻すということをも表しています。足に絡まった網を解き 引き出してくださるかのように、この身を引き戻してくださるのであります。

今日の聖書は、新約聖書ルカによる福音書19章1節から10節、主イエス・キリストが、ある町を通られる、その時、起きた出来事を語っています。
 
1節、2節にはこうあります。「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。」

エリコという町は、かつて旧約聖書では、あのイスラエルの民が、カナン地方に入って行ったその最初の都市でありました。城門を固く閉ざしたエリコの町の周りを、イスラエルの民が一日一周し、七日目に七周し、民は鬨の声を上げると城壁は崩れ、イスラエルの民はその町エリコに入って行きました。

それから時代を経て、再建が難しくなっていた時期もあったエリコの町ですが、泉やオアシスなどに訪れる人も多く、人々が集う小さな村へとなっていたと云われます。さらに、時代が過ぎ、ヘロデ大王とその後継者たちにより、ローマ風の庭園や宮殿、また、劇場や競技場が建てられ、近くにはナツメヤシとバルサムの森があって大きな収入源となっていたと云われています。

そのようなことからも、主イエスがエリコの町を通っておられた時、この地域は、人々も多く、栄えていたのでありました。

そしてルカによる福音書19章1節で、主イエスが、エリコに入られる前に、一つ前の章、ルカ福音書18章の35節で、「イエスがエリコに近づいたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。」とあります。そして、この目の不自由であった人は、群衆が通って行くのを聞いて、「これは一体何事ですか」と尋ねると、「ナザレのイエスがお通りだ」と知りました。

すると、この人は、叫び出したというのです。

周りの人々は叱り、黙らせようとしますが、ますますこの人は叫び続けました。

「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。すると、主イエスは、この人を呼び出され、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃると、目の不自由であった人は、たちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、主イエスに従いました。第三者の目には、はじめから主イエスは、この人を目指していたのようには見えませんでしたが、民衆は、これを見て、神を賛美したというのであります。

エリコの町を通られる主イエス。すでに、そこでは主イエスがお通りになられることにより、人々が突き動かされるという出来事が、引き起こされていたのでありました。

そして、その閉ざされていたものが開かれるという喜びが、神への賛美と感謝となっていたのでありました。

そこに、ザアカイという人物がおりました。この人は税金を取り立てる徴税人、その頭でありました。当時、エリコの人々にとって、この徴税人は、よくは思われていませんでした。ザアカイは、人の出入りの非常に多いエリコの税関の長であり、人々の金銭のかなりを巻き上げていたというその頭であったのです。そして、自分の地位を用い尽くしていたのでありました。人々の中には、関わり合いたくないという人や、関わりがないと都合が良くないという人もいました。

ザアカイは、3節、4節「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。ザアカイは、徴税人の頭として、また、税関の長としての地位があったのでしたが、この時、押し寄せる群衆に遮られてしまいます。ザアカイは、主イエスを見ようとしますが、人々に押しやられてしまうかのようです。

「見ることができなかった」。ザアカイは、「見ることができないでいた」と原文では記されています。それは、権力があっても、望みを失っていたということでもありました。

しかし、ザアカイは「イエスがどんな人か」見たいと願っていました。あの目の不自由な人が癒されたという出来事、そして、その主イエスが通られる。彼は、見てみたいと思ったのです。ザアカイは走ります。走って、走って、主イエスが進んで行かれるその先に回って木に登ります。上からだったら見ることができるはずだと思ったのです。おそらく多くの人が「誰だ。あの木に登っているのは」と思ったのではないでしょうか。木の上から下がよく見えるということは、下からもよく見えるということで、人々は、木の上のザアカイのその姿を見たのであります。ザアカイは、主イエスが来られるその前に、木によじ登ったのでありました。

主イエスは、そこを通り抜けようとされたのであります。

主イエスは、この時点より前、すでに、弟子たちを呼び寄せてお語りになっておられました。「 今、わたしはエルサレムに上って行く」。

主イエスが、エリコを通り抜けようとされたのは、エルサレムに上って行く途中、苦難を受けられ、十字架の死へ向かって行かれる、しかし、主イエスは、その三日後に復活されることも主イエスは、弟子たちに繰り返し予告しておられましたが、その意味は隠されており、まだ弟子たちには理解できませんした。主イエスは、苦難と十字架の死、そのエルサレムへと上って行こうとされる道の途上、ルカによる福音書19章5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」

主イエスは、その時、その場所に、来られたのであります。それは、もともとザアカイを目指してその道を通られたのではないかもしれません。しかし、主イエスは、その時、その場所に、来られて、そこでお語りになられるのです。

先ず、名を呼ばれます。「ザアカイ」その名は、ザゼカリヤ。「主は覚えてくださる」を短くした名です。そして、「ザアカイ」その意味は、「きよい人」。

彼は、エリコの町で徴税人の頭で、金持ちではありましたが、人々からはよく思われずにいたのでありました。それでも、彼は、主イエスを見たいと願い、行動したのでありました。人々にとっては、目を向けたくない者であったかもしれませんが、主イエスは、木の上にいるザアカイを見上げます。

その日、その場所、すなわち、「今日」が来たのでありました。「今日の今日」、主イエス・キリストは、ザアカイを呼ばれ、あなたを呼ばれるのであります。

「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。そのために「急いで降りて来なさい」。

「あなたの家に泊まりたい」と訳されている言葉は、「あなたの家に泊まらなければならない」と訳すことができます。

今日こそがその日、その時なのです。

エルサレムへと向かい、エリコの町を通り抜けようとされる主イエスが、名を指しておっしゃるのです。6節、7節「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

人々は、ザアカイが普段、エリコでどのような人物なのかを知っていました。ですから、この男は「罪深い男なのだ。」「その男の家に主イエスが行かれるとは」。そこには、批判や非難の思いが含まれていました。

しかし、その人々の思いとはまったく反対に、ザアカイは大喜びであったのです。徴税人の頭として認められたからではありません。

主イエスがどんなお方かを見ようと願ったこの「わたしを主イエスは知っていてくださった」。

このわたしの名を呼んでくださり、その声、そのまなざしをもって、わたしの家に泊まりたいとおっしゃってくださったのです。主が、わたしと共に憩いの時を持ちたいと願ってくださったのです。

ザアカイは、自分を縛りつけていたものが一つまた一つと手放されていくのを感じました。それまでは、力ずくで得ようとし、無理を人々に強いてきましたが、主イエスと「今日」出会い、手放す大きな喜びと自由を与えられたのです。

喜ぶザアカイを人々は避難する。しかし、8節「ザアカイは立ち上がって主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』

ザアカイは、ここでわたしは「だまし取っていた」「ゆすりの不正を行っていた」と言っているのですが、その返済は標準を大きく超えたものを返すと言っています。

ザアカイは、「ザアカイ」であることを、主イエスの御前に認めたのであります。 それは、人々の非難の目ではなく、十字架の死と復活に向かって行かれる主イエス・キリストの大いなる愛とゆるしの御前で、ザアカイは罪悪感と無価値感からまったく解かれ、本来のザアカイへ、喜んで主イエスを迎えたザアカイに、戻ったのでありました。

9節、10節「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。「この家」とおっしゃる「家」は神の家、神の家族と言えます。

それぞれの場所であっても、神の家、神の家族を主イエスは訪れ、失われた者の魂を生き返らせてくださいます。

主は、探し求める者を探し、救われるからであります