ルカによる福音書14章15節~24節 「招かれた人」

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」と、主イエスと一緒に食事の席についたある人は言いました。

近くにあって、また、遠くにあって、共にあるということの喜び、それは、心の底深いところからの喜びといってよいかもしれません。

今、目の前にそのことがたとえなくても、その幸いは変わることがありません。

旧約聖書に、かつてこの世の中で様々な試練と戦いを通った人物にダビデ王がいました。ダビデは、もともと羊飼いでありました。主なる神により、イスラエルの民の王として任命されるのでありますが、その歩みははじめから心を痛め、思い煩いの多いものであったかもしれません。王となって行く彼がもっとも崇高で純粋と思っていた仕事、働きは何かと言うと「羊飼い」であったのかもしれません。心身ともに苦労も多く、しかも神が造られた大自然の中で支えられていく経験はダビデに、豊かな体験と多くの示唆を与えたと考えられます。その彼が、主なる神を、「主は羊飼い」と言って、最も尊いお方を表現したのは単なる偶然の思いつきではなく、羊を守り、羊を保護し、羊を育む働きをしていたことのあるダビデの実感でもあったのではないでしょうか。

そのダビデは、旧約聖書の詩篇18篇の17節から20節という聖書箇所でこのように歌っています。「主は高い天から御手を遣わして、わたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日、主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる」。

ダビデは、主なる神がその御手をもって引き上げてくださった、そのことを歌うのであります。「敵」と言われるものの前で、困窮に喘ぎ、その心が押しつぶされそうになる静かな夜にも、主なる神はこのわたしを支えてくださるというのです。

そして、主なる神は、わたしを「広い所」に導き出して助けとなってくださり、喜び迎え入れてくださるという経験を、ダビデは歌にしました。

「広い所」とは、物理的な面積というよりは、主なる神と共にいるその領域と言えます 。その所に導き入れられ、迎え入れられたことの感謝と喜びがあふれます。

ダビデがこの歌を詠ったそのことを、詩編18編の1節、新共同訳聖書では、小さな文字でこう記しています。「ダビデの歌。主が、ダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出された時、彼はこの歌の言葉を主に述べた」。

「敵の手から救い出された」ということと併せて「サウルの手から救い出された時」とあります。ダビデの多くの戦いと試練がここに表現されていると言えます。

サウルとは、イスラエルの初代の王、その後をダビデは継いで行くこととなるのですが、サウロ王は心乱れ、ダビデを追い狙うことになったのであります。ダビデは追われ、逃亡する身となるのですが、サウル王に手を下す時が巡ってきても、ダビデは決して手を出すことをしませんでした。

サウル王の長子にヨナタンという人物がいましたが、このヨナタンとダビデの心は強く結びついていました。サウル王がダビデへの憎しみと殺意に燃えている時にも、ヨナタンは、心からダビデに手を尽くしました。

やがてサウル王とヨナタンは、戦場で亡くなってしまいますが、ダビデはサウルとヨナタンの死に際し、哀悼の歌を読みました。そして、時が過ぎ、ダビデ王が全イスラエルを支配し、そのため、すべてのために裁きと恵みの業を行うこととなった時、ダビデは言いました。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのためにそのものに忠実を尽くしたい」。

すると、ヨナタンの子息が一人だけおりました。その人の名はメフィボシェトと言いました。この人は両足が不自由で、体の不自由な人でありました。このヨナタンの息子を、ダビデは連れて来させて言いました。「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。祖父サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように」。

このように、ダビデにとって、また、イスラエルの民にとって、同じ食卓で食事を共にするということはとても大切な意味を持っていました。

今日の聖書は、新約聖書ルカによる福音書14章15節から24節。新共同訳聖書では「大宴会のたとえ」と小見出しが付けられ、主イエス・キリストがたとえをお語りになっておられるところです。

この14章の前半、ユダヤのある安息日に、主イエスは、食事のためにファリサイ派と呼ばれる議員の家にお入りになった時のことでありました。

主イエスは食事に招いてくれた人にこうおっしゃいました。「昼食や夕食の会を催す時には、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いて、お返しをするかもしれないからである。宴会を催す時には、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすればその人たちはお返しができないからあなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。

主イエスは、ユダヤの人々が、また、ファリサイ派と呼ばれる人々が、人々の間で名誉を重んじているその中でお語りになられました。

ファリサイ派の人々は、自分たちこそが律法を守る正しい者たちだという強い自負心を持っていました。そのような心持ちの人々に、このようにすれば「正しい者たちが報われる」ということを、主イエスは、お語りになり、人々の間で名誉を求める彼らの思いと考えに訴えています。

そこで、ルカによる福音書14章15節。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう』と言った」。

ファリサイ派と呼ばれる人の一人は、自分たちこそが、神の国で食事をするものであり、その意識はいつしか、自分たちのみがそうであるとなっていることに、彼らは気づかずにいたのかもしれません。もし気づいていたとしてもそれを彼らは、無かったものにしようとしていたのかもしれません。そこで、主イエスは、たとえを語りになられます。

16節17節。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた」。

食事の席に招かれた主イエスが、たとえで、「招いておいた人々」を語ります。

主イエスのたとえで、人々が招かれていたのは盛大な宴会であり、主催者の思いが大きく広いものであることを語っています。

しかし、僕が招かれていた人々のもとに行ってみると、18節から20節。「すると皆、次々に断った。最初の人はは、『畑を買ったので、見に行かね行かねばなりません。どうか、失礼させてください。』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また、別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」。

宴会には事前に人々を招いておいて、その食事の用意が整う時間に合わせて人々を招きに出て行ったのでありましたが、会う人、会う人、断られてしまったのでありました。

主イエスのお語りになれるこのたとえでは、どれも、それなりの理由であります。最初の人は、「ねばならない」と言っています。「行かねばならない」という事情があります。次の人は、「行くところ」「調べに行くところです」と、「ただ今、進んで行く途中」という事情。そして、次の人は、「できません」。「そうなっているのでできません」という事情です。

21節、たとえで、「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は、怒って、僕に言った。『急いで街の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れてきなさい』」。

僕は、主人の言っていること、また、人々の言っていることをそのまま伝えていますが、人々の言っていることを報告すると、主人は、怒って次の指示を出します。それは、「町の広場や路地にいる人々」にでありました。いつもの日常で、どちらかと言うと近くに、ではあるけれども、すれ違うようにも感じられる人々。そして、また、主イエスが、たとえを語られる当時においても、人々の区別は、エルサレム神殿を中心に明確にされていました。

主イエスのたとえの主人は、断られたことで怒っていましたが、貧しい人、いと小さく弱い者と、人々によって、また、律法によってされていた人々を「招くように」と言うのです。

主イエスのたとえの主人は、人々の事情にはかかわらず、どこまでも招こうとされます。そのご意志は変わりません。「人々をここに連れて来なさい」「共にいたい」という思いは、途絶えることなく、人々を求め続けておられます。

22節から24節「やがて、僕が、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ、席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わうものは一人もいない』」。

「あの招かれた人たち」とたとえで主人が言っているのは、「こうでなければならない」また「これこれこうできません」と人の事情を大きくしてしまい、大宴会で、主人の食事を、主人の恵みを、味わうことのできない「人たち」でありますが、この主イエスのたとえ話は、神の招きは、すべての人々に届けられています。人々はそれを極めて小さくしてしまい、日々、招きに応えることができなくなってしまっていることを語っています。

今日、わたしたちの神、十字架の死より復活された主にささげられた聖なる日。

嘆きと悲しみ、そして、涙の中にあるかもしれない。

しかし、主を喜び祝うことこそ、わたしたちの力の源であります。

主なる神は目には見えませんが、同じ席につき、すべてのことに打ち勝つ愛とゆるしの食卓にわたしたちを招いておられます。(礼拝堂、また、ご自宅など、それぞれの場所において)すべての垣根と囲い、また、重さを超えて、生きる力の源をお与えになられる主は、かつて来られ、やがて来られ、そして、今おられます。

ここに、今を生きる幸いがあります。

主とともに生き、語らう幸いがあります。

実に、主はあなたの力の源に、あなたを招かれたのであります。