ローマの信徒への手紙10章5節~17節 「聞くことによって」

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。

主イエス・キリストにより、恵みを受けて使徒とされたパウロは、神の福音を語り伝えました。福音とは、良い知らせのことであると共に、祝福された音、その響きと言ってよいかもしれません。

教会暦では聖霊降臨節に入り、聖霊の息吹を受け、また、季節は入梅。静かに雨音に聞く時を迎えましたが、疫病感染拡大防止を講じつつ、さまざまな思いや考えをわたしたちは心に巡らしています。

キリスト教カウンセリングの第一任者であり牧師、神学校教師として広く教会に仕え続けてこられた賀来周一先生の文章に、「あいまいさを受容する」という随想があります。

「どのような素晴らしい発明や発見にも、偶然の思いつきや予想もしなかったことが絡んでいるように、世の中には、どうしてそうなったか分からない、けれども、とにもかくにもそうなってしまったということがあるものです。不確実さ、あるいは偶然といったことの隣り合わせにあるようなあいまいさは人の世には付きものです。
しかしながら、案外そこに人が生きる真実が見えるから不思議と言わざるを得ません。心理学者ゴードン・オルポートは、人間の問題を扱うときには、あいまいさを受容することが大切だと言います。
オルポートがこんなことをその例に挙げました。重篤の病人がいました。彼は、ある非常に高名な医師を信頼していて、その医師から見てもらえもらえれば病気は治ると信じていました。幸運にも、その医師の診察を受ける機会がやってきました。医師は病人を診察し、『モリブンドゥス(moribundus)』と言ったのです。ところがそれを聞いた病人は急に元気を取り戻し、めきめき回復に向かったというのです。『モリブンドゥス』とは、ラテン語で死にかけているという意味でありました。
また、幼児期時から指しゃぶりの絶えない男の子がいました。母親は心配のあまり精神科医師や心理カウンセラーを訪ね回りましたが一向によくなりません。この子が十歳になった時のこと、突然指しゃぶりをやめたのです。母親は、びっくりして『どうしてお前は指しゃぶりをやめたの』と聞きました。彼は言いました。『十歳の子どもは指しゃぶりなんかしないもんだ』
オルポートは、『これらの現象を色々詮索して、心理分析をし、納得できる答えを探そうとしても意味はない。こういうときは、起こったことは事実なのだから、それをそのまま受け入れなければならない。もし完全に証明できる答えを探してやっきになるなら、神経症になる』と言います。
オルポートは、そのような現象は、人間の問題を扱うときには避けられないのであって、人間の世界の中に起こることにはあいまいさや不確実、偶然は付いて回る。成熟した人間は、あいまいさと不確実さを受容することができると言います。

現代人は、十九世紀から二十世紀にかけて急速に発展してきた、いわゆる科学の家に支配されてきました。端的に言えば、考えてわかる、目で見て実証できることが本当のことであって、考えて分からないもの、目で見て実証できないことは本当のことではない、という考え方に支配されてきました。
しかし、人間は、考えてわかる、目で見て実証できることだけで、物事を処理し、結論づけて生きているわけではありません。なぜか、どうしてか分からないが、とにかくそうなってしまった。でもそのおかげで無事に生きている。偶然の出会いとしか思えないが、幸せがそこから生まれた。まったく予期しなかったのに思いがけなく助かった、などといった経験をお持ちの方は少なくないのではないでしょうか。
信仰者としては、そのようなあいまいさを粗末にしたくありません。世の中には神だけがご存じで、神しかお分かりにならないことがあるものです。信仰に生きるとは、物事があいまいであればこそ、神しかご存じでない〈あいまいさ〉を私たちのものとすることが許される世界に生きるということでしょう」。(賀来周一『土の器なれども講演・随想・召命』キリスト新聞社2019年)

現在、わたしたちは、この世界にあって、「あいまいさ」や「不確実」そしてまた「偶然」とも言えることの多い中で、それでも神しかご存じでない、それはそのまま、神のみがすべてをご存じでいらっしゃるということの世界に生かされていることに、再び心を高く上げるのであります。

今日、わたしたちに与えられた聖書は、新約聖書ローマの信徒への手紙10章5節から17節、新共同訳聖書では「万人の救い」という小見出しのついた箇所からであります。

この手紙を書き記したパウロは、まだ行ったことのない地のキリスト者たちにぜひこのことは伝えたいとローマの信徒への手紙を著しました。そして、その伝えたいこととは、今日の聖書の小見出しにある通りすべての人の救いであります。

5節にはこうあります。「モーセは律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています」。

パウロは、彼の同胞であるユダヤ人に向けて、また、ユダヤ人キリスト者に向けてこの手紙を通して語っています。

かつて、イスラエルの民がエジプトの国で繋がれ苦しんでいた時、その叫び声を主なる神はお聞きになられました。主は、イスラエルの民をエジプトから脱出させるためモーセを立てます。そして、指導者モーセをはじめイスラエルの民は荒れ野を行くこととなるのですが、その途上で「掟」を与えられます。

主は、モーセにこう告げられたのであります。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしたちがかつて住んでいた。エジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」。

使徒パウロは、このことを「律法による義について」という言葉で言い表すとしています。 それは、「掟」というようにある拘束力を持つものとして与えられた律法を守ることにより、義しいと認められるということです。

「しかし」とパウロは言います。6節7節「しかし、信仰による義については、こう述べられています。『心の中で誰が天に上るか』と言ってはならない。これはキリストを引き下ろすことになるにほかなりません。また、『誰が底なしの淵に降るか』と言ってもならない。 これは、キリストを死の中から引き上げることになります」。

パウロは、「律法による義」に対して、「信仰による義」と述べます。

律法を守ることにより義しいと認められることと、ただ与えられた信仰により義しいと認められること、の対比で述べています。

そして、信仰による義については「天に上る」ことや「底なしの淵に降る」ことをしなくても、すぐ近くにあるというのです。それは、キリスト・イエスを通して、神の御言葉はあなたのごく近くにあるということです。

この世にあって、人々の罪の赦しのため、苦難を受けられ、十字架の死につかれたキリスト・イエスは、死を滅びから復活させられました。このキリスト・イエスが、すぐ近くにおられるのに、引き下ろしたり引き上げるようなことを人はしてはならないし、そもそも人はそのようなことはできないのです。神がなさることだからです。

「では」と続いて、8節9節「では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これはわたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。

パウロは、信仰の言葉について語ります。キリスト・イエスの言葉はわたしたちの口にあり、わたしたちの心にあります。そして、キリストの御言葉は、神の御言葉であり、わたしたちに命をお与えくださいます。

わたしたちは、生きるにしても死ぬにしても、主のものなのです。キリスト・イエスが死に、そして、生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためなのです。

パウロはこの主に触れられて、出会い、信仰の言葉を与えられたのでありました。

それは、人が得ようとして獲得するというよりは、神が、お与えくださる賜物です。そして、その息吹をお送りくださるのは聖霊なのです。聖霊によらなければ誰も、イエスは主であると言えないのであります。信仰の言葉は聖霊によって与えられる霊的な賜物なのです。それは視覚的に目に見えるものではなく、また、触覚的に手に触れるものではありません。しかし、「二人または三人がわたしの名によって集うところには、わたしもいるのである」と主イエスがおっしゃった通り、主キリスト・イエスは確かにおられ、聖霊は、そのことをあなたに証し続けておられるのです。

ですから、10節から13節。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、『主を信じる者は、誰も失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者は、誰でも救われる』のです」。

パウロは、神がすべてをご存知であることそのことに生きています。人の心を、また、人が口にすること、人の語ることを、受け入れてくださるお方と共に、パウロは生きるのです。

あなたの心の内にある言葉は何ですか、ということであります。

心で信じて義と認められ、言葉を口で公に言い表して救われるのであります。パウロはローマの信徒への手紙を書き記す時、この世でもはや生きて出会うことは叶わないだろうとさえ思える人々に向かって語っています。命をかけて語る状況でパウロは言いました。「主を信じる者は、誰も失望することがない」。

すべての人に、主がおられ、すべての人に望みを備えておられます。ですので、「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」のです。

パウロは問いを発します。14、15節「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてある通りです。」

救い主キリスト・イエスを呼び求め、信じ、聞く、ということであります。それは、パウロ 自身が、キリスト・イエスにより、いつも促されてきたことでありました。主を呼び求めること、主を信じること、主に聞くことへと、導かれてきたのであります。

そして、それは命そのものとなったのです。

この世で、命をけずられ、命がゆがめられるかのような災いの時を過ごすことがあるかもしれない。しかし、それでもよい知らせの静かな足音が聞こえてくるのです。しかし、16、17節「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。

神がお望みになられることは、キリスト・イエスによって成し遂げられました。しかし、すべての人が、この良い知らせに従ったのではありません。なぜそうなのか、わたしたちには分かりません。

それでも、神は愛とゆるしをお与えになられます。

そして、この時を通り抜けて行くのには、愛とゆるしが必要です。

神の愛とゆるしは、あなたの言葉を聞いています。口にあり心にある言葉を、主はそっと寄り添いお聞きになっておられます。

近くにあって、信頼し、信じる者は失望することがありません。

信仰は、聞くことにより、しかも、わたしたちが、今もここに生きておられるキリストの御言葉に心を合わせ聞くことによって始まるのです。