ヨハネによる福音書21章15節~19節 「神の栄光を」

「わたしに従いなさい」と主イエス・キリストはおっしゃいました。
死と滅びから復活された主がお語りになられたのでありました。

今、わたしたちの社会は、疫病による数々の自粛と制限の中での暮らしを継続しています。何かすべてが閉じ込められているような気持ちでおられる方々に、どうか「わたしはここにいる。わたしはここにいる。」と語り続けるお方が、絶えることなく日夜、手を差し伸べておられるお方が、お守りくださいましようにと祈り願います。

わたしたち、むさし小山教会にて、神の御言葉を宣べ伝え、祈り、兄弟姉妹を慰め、励まされた、第二代主任牧師の小林 宥(すすむ)先生が、昨年5月4日に天に召されて一年になりました。主の日の礼拝後にはよく握手をし、談笑され、ご挨拶されたことを、今、思い出します。また、ご家族皆様も共によく力を尽くされました。

主なる神は、故小林 宥先生を召し出されました。それは、この世でのご生涯を終えられ、新約聖書フィリピの信徒への手紙3章20節にある通り「わたしたちの本国、国籍は天にあります」ということと共に、神がこの世において召命をお与えになられたということでもありました。それは、ご家族をはじめ、小林 宥先生をひとりの牧師として、その使命を果たすようにと、神が呼びかけられたのでありました。

かつて、主イエス・キリストから呼びかけられ、その人生の向かう道を変え、主イエス・キリストを宣べ伝えることとなったパウロは、親しい交わりのあったフィリピのキリスト者たちにこう手紙を書き送りました。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえられたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。

パウロの記述したこの言葉は今、ここにおいても生きています。召し出され、召命を受けた先達の方々は、この生きていることばを運び、そして、運び続けています。

パウロは言います。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても、不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしたちはすべてが可能です」。

この世において多くの事柄を取り扱うことの中でも、その使命を神から呼び出され与えられた者が、その奥義を語っているのであります。それは、「わたしを強めて下さるお方がおられる」ということであります。

強められるとは、肉体的に、と言うことも言えるかもしれませんが、それは人の感情、人の精神、そして人の霊的な領域においてということができます。元気がなければ回復させ、傷んでいれば癒しの手を差し伸べようと待っておられるお方がいらっしゃるということであります。主なる神はその魂をご存じであります。そのことを狭い門を幾度と通ることにより、知ったのでありました。「わたしにはすべてが可能だ」「わたしを強めてくださるお方のお陰で」、と言うのです。ですから、心によろこびの声を上げ、進んで行くことが出来たのであります。

パウロと言う人物を生んだユダヤ、そのユダヤの古代の詩人も「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」とわたしを強めて下さるお方がおられるそのよろこびの声を上げています。

そして、旧約聖書の詩編66編10節から12節でこのように歌います。「神よ、あたなは我らを試みられた。銀で火を練るように我らを試された。あなたは我らに枷をはめ、人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して豊かな所に置かれた」。

古代の詩人は歴史的出来事の中に現わされた試練を歌っています。しかし、その試練の中でこそ、トンネルの「向こう側」を見たと言えるのかもしれません。火の中、水の中を通ってきたけれども脱出した。導き出され、しかも新しい豊かな所に入ったというのです。その場所と時間という物理的な意味においても、主は我らを新しい広々とした地に導き出されたというよろこびを歌っているのであります。そしてこの歌が、その人の内から湧き上がるのは、「わたしを強めてくださるお方がおられる」ということを、目には見えなくても知っていたからでもあります。

かつてある時、目の前におられる主イエスに弟子のペトロは言いました。「主よ、どこへ行かれるのですか」。主イエスはお答えになられます。「わたしの行く所にあなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。ペトロは言います。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。しかし、主イエスはその時、「鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないとあなたは言うだろう」とペトロにおっしゃいました。主から離反することを予告されたのです。それは、主イエスが人々の罪の赦しのため捕らえられ、苦しみを受けられ、十字架の死につかれるその闇が直前に迫っている時においてでありました。

その夜、主イエスは弟子の一人に裏切られて捕らえられ、ほかの弟子たちは逃げ出す。連行される主イエスを追いペトロは大祭司の屋敷の門の外に立つ。一人の人が「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」。「違う」。人々が「お前もあの弟子の一人ではないのか」。「違う」。そして、ペトロに傷つけられたという人の身内の者が「あの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と言うと、ぺトロは、それを打ち消し「あなたの言うことはわからない」と言い終わらないうちに、突然、鶏が鳴く。
すると、捕らえられた主イエスが通られ、振り返られペトロを見つめられる。ペトロは、主イエスに言われた言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いたのでありました。十字架にかけられた主イエスは、墓に納められます。しかし、三日後、主イエス・キリストは墓におられず、日曜日の日の朝早く、復活されます。

そして、復活された主は、ガリラヤ湖にて朝の食事を弟子たちと共にし、今日の聖書ヨハネによる福音書21章15節「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに『ヨハネの子シモン、この人たち以上に、わたしを愛しているか』と言われた。ペトロが『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」。

朝の食事、炭火の上にパンと魚を分けあって共にするその交わりは、復活された主イエスに「あなたはどなたですか」と問うことなく、このお方が主であるということを知っている者たちの交わりでありました。

「シモン」とは「神は聞かれた」という意味内容をもった名でありますが、この時、主はシモン・ペトロにお聞きになられたのであります。ペトロは、神によって聞かれ、受け入れられた者として、すなわち、すでに赦された者として、聞かれたのであります。「わたしを愛しているか」。あの暗い夜、人々の前では主イエスを知らないと言っていたペトロは「愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。

主イエスは、あの暗い闇の夜、ペトロがどうしたのかは問うことなく、「わたしの小羊をかいなさい」とお答えになられ、ガリラヤ湖で漁をするペトロにおっしゃいます。ペトロは何の思い悩みもないように答えています。

そこで16節。「二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか』ペトロが『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた」。

新約聖書の原文では、主イエスの用いられる「愛」は神の愛。そしてペトロの「愛」は両親、兄弟、友情の愛で答えています。その意味では、同じ「愛」と日本語訳では訳されていますが、質的な違い、また主イエスとペトロの何とも言えない意識の違いを表しているということができますが、主イエスは、漁師であるペトロに「わたしの小羊を飼いなさい」とおっしゃってガリラヤからエルサレムへと共に歩み、主なる神を信じ、主イエスを信じる者たちのことを思い起こさせられるのです。

それは、これまでのこと、そして、これからのことに思い悩み、不安でしかないという中にある人々への主イエスの呼びかけでもあります。

小羊の群れが守られるように。

主イエスの思いがくりかえされます。

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。神の愛は神の国を現わし、神の国は神の愛を現わします。

17節「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい』」。

三度、主イエスを知らないと言ったペトロ。外に出て激しく泣いたというペトロは、主イエスへの愛をくりかえし表明します。その思いが主イエスに伝わったのでしょうか。それより前に主イエスがペトロにどこまでも寄り添い、まったく受け入れて下さっておられるからでしょうか。主イエスは、ペトロと同じ意味の「愛」という言葉を用いられます。ペトロが主イエスを愛している以上に、主イエスはペトロを愛し、そしてその愛は、今、この礼拝堂で、また、それぞれのご自宅で、礼拝をおささげしている方々と共に、重ね合わされひとつの交わりとなっているのです。

主イエスは、愛するペトロにおっしゃいます。18節「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところに行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。

主イエスは、ペトロがどこへ、何のために、向かっているのかをご存じでありました。それは、本国へ、本籍地へ向かっているということに、この地上で変えられて行くということであります。

19節「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた」。

召し出し、呼び出された主イエスは、復活の主であります。復活がなかったかのような生き方で歩むのではなく、復活の主と共に歩み、従うようにと主はおっしゃいます。それが、この時、この地上に在るわたしたちの歩みです。苦しみと労苦とは尽きることなく多いかもしれない。しかし、やがて、現わされる栄光に向かって、「わたしに従いなさい」とおっしゃる主イエス・キリストは、同時に、「わたしはあなたについて行く」と、今、おっしゃいます。愛をもって。

 

ご健康が守られますように。

神様の恵みと平安を心よりお祈りいたします。