「勝利の主」 ローマの信徒への手紙8章31節~39節

わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています」。今日、わたしたちのもとに届けられました聖書はそう語っています。「敗北」ではなく、もろもろの不安に打ち勝つ勝利、「わたしたちは勝ちて余りある」ということであります。

疫病感染拡大防止策の継続と、また新しい生活様式へと向かって行くその中でも、心と体に疲れをもっておられる方々、また、与えられている責任を果たそうと、日々はりつめた中におられる方々の安心と安全が守られますようにと祈り願います。

歴史的に古く、キリスト教会がまだ広められるよりも前のヨーロッパ各地では、土地や建物の周りを巡り歩いて、安全や繁栄を願う行事がありました。その後カトリック教会は、このような行事を教会の行事として結び合わせて取り入れることになりました。紀元後5、6世紀頃、行列の先頭に十字架を掲げて練り歩き、多くの人々が列を作って並び出発する時、目的地へ向かって行く間、そして、目的地に到着した後、というように、その場所場所で、教会の聖職者と行列に連なる人々に、またちょうどその場所に居合わせた人々をも含めて、 長い祈りを交互に唱えとのことでありました。そして、その目的地では、その後、ミサを立て、豊かな収穫、天候の回復、建造物の安全などを祈り願いました。この行列はやがて、戦争、飢饉、天災、疫病の流行などに際しても行われるようになり、平和な時代には、教会暦の主の昇天日前の三日間、町を練り歩く祈りの行列となったと云われています。

主の昇天とは、主イエス・キリストが十字架の死より復活され、弟子たちに四十日間現れ、弟子たちの見ている目の前で天に上げられた出来事のことであります。弟子たちは、よみがえりの主が、神の御座に戻って行かれるのを仰ぎ見たというのであります。

そして、教会暦では、そして、教会暦では、主の昇天日に合わせて、主イエスの弟子たち一同が心を合わせ熱心に祈っていたことをも思い起こし、さらに、今日はそのようなことが勧められる「祈れ」と名付けられ、呼ばれるようになった主の日であります。

死者の中からの復活によって、力ある神の子と定められた主イエス・キリストによって召された使徒パウロは、祈っておりました。そして、手紙を通してその言葉を届けたのでありました。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」そのように、キリストからの恵みと平和を祈り願ったのです。

そして、それは神に愛され召されて聖なる者となった人々に向けられての祈り願いでもありました。

今はそれぞれの場所に散らされているかもしれない。しかし、神があなたをまたあなたがたを愛し、人ではなく、神が選ばれたという意味で聖なる者となった一人ひとりに向けてパウロはお互いに与えられ持っている信仰によって励まし合いたいと祈り願ったのでありました。
パウロの思い、その祈り願いの背景にある、また、その祈り願いを支えていたのは、ローマの信徒たちでありました。

それぞれの置かれているところ、その場所に行っての苦しみ悲しみ、そして、辛さに思わぬところで、あっている兄妹姉妹たちでありました。

その一人一人がパウロ自身に祈る祈り得る力をも与えていた、と言うことができるかもしれません。

そして、復活の主イエス・キリストによって、使徒とされたパウロは、兄妹姉妹たち、すなわち神に選ばれ聖なる者となった方々に、聖なる神の霊、聖霊は、あなたがたのために、神の御心により執り成してくださっていると伝えます。執り成すとは、助け、救ってくださるということでもあります。どのように祈ったらよいのかわからず、閉ざされ塞がれた魂を、閉ざされ塞がれたその心を、執り成してくださる、神の霊。その神の霊、自らが言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるのであります。

わたしたちが呻くとき、神の霊はわたしたちのそのはっきりしない重く硬いものを取り除くように執り成してくださるのであります。

ですから、神を愛する者たちとパウロは言います。「ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということをわたしたちは知っています」。パウロは神の愛によって、すべてが恵みとなるように共に働くということを知っていると言うのであります。

それは、今はこうであるけれどもすでに違う「今」が用意されているということであります。ですから、「現在の苦しみは将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると取るに足りないと私は思います」とパウロは言います。

この世での苦しみと悲しみ、そして、辛さを知っており苦労を身にしみて知っているパウロは、見るべきところを見る、その恵みを、主イエスを救い主として証しする神の霊によって知ったのです。

そして今日の聖書、新約聖書ローマの信徒への手紙 8章31節「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし、神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか」。

パウロは「これらのことについて」と言います。その「これらのこと」とは、

先ず、「神の霊によって示され死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた主イエス・キリストの恵みと平和」。

次に、「ご計画によって召された者たちには、万事が益となるように共に働く」ということ。

そして、「現在の苦しみは、将来わたしたちに表せれるはずの栄光に比べると、取るに足りない」ということ。「これらのこと」です。

そして「これら」はわたしたちの生きるすべての場面に関わりを持つことであり、影響を及ぼすことであります。「これらのことを何と言ったらよいだろうか」とパウロは自ら問い、考え、そして、「もし神がわたしたちの味方であるならば誰がわたしたちに敵対できるだろうか」と言うのです。

新約聖書の福音書に記されておりますが、かつて、マリアと共に生きたヨセフは、これからどうやって生きて行ったらよいのだろうかと悩んでいました。この社会の中で、そして、この世でわたしはどう働き生きたらよいのだろうかと不安と恐れの中に考え込んでいた時、ヨセフに近く近づく者がありました。主の天使であります。天使は言ったのです。「神は我々と共におられる」。そして、その通りになったのです。

パウロは、「神が味方なら誰がわたしたちに逆らうだろうか」と述べて、何を不安に思い恐れているのかと問い、その問い自体によって光を灯すのであります。

32節「わたしたちすべてのために、その御子をさえを惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。

神が、その独り子をこの世に、また、この世界にお送りになられたのです。ある暗い夜、主イエスを訪ねたある人に主イエスはおっしゃいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と神の独り子である主イエスは、 ある夜、お語りになりました。永遠の命とは、言い換えると「すべてのもの」と言えます。

わたしたちは「すべてのもの」と言うと何か自分のものとして所有する物を考えてしまうことが多いかもしれませんが、それはそれで大切なことではありますが、パウロの言う「すべてのもの」とは、目に見えるものを遥かに超えたものが、今、この場にある、ということであり、そしてまた、「ここにおられる」ということであります。

33、34節「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。

ただただ神が主となられて、選んでくださった喜びと感謝の思いを持って、パウロは書き記します。

神がわたしたちを「正しい」としてくださるのです。神と人との関係を損なわれたものとしてではなく、罪を赦し、生き生きとした神との関係に回復してくださるのです。神はその御手を離すことなく、キリスト・イエスにおいて共にいてくださいます。キリストは、神と共にあってわたしたちのために執り成してくださり、今や、キリストに結ばれている人は罪に定められることはありません。神が義としてくださいます。

パウロは、手紙の中で問いという形をとりながら、明らかなことを明らかにし、正しいことが愛をもって正しいとされるよう、確信にもとづいて述べるのです。

キリスト・イエスがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ですから 35、36節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてある通りです」。

パウロは、一日中、心も体も生存するための緊張を強いられ続ける経験をしました。四方から苦しめられ行く道を失いかけ、途方に暮れて確信をも揺らぎ、虐げられて見捨てられ、打ち倒れそうになるようなこと。多くの困難を通り、苦しみ悩んで来ました。人の目から見ると敗北と言えば敗北に映るかもしれませんが、パウロは、それでも行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされなかったのです。

そのパウロが、自ら問いを発します。「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」。そして、すべての困難と労苦の中にあって、彼は、「しかし」と言います。

37節「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」。

神の愛は勝利です。神の愛は死と滅びに勝利したのであります。

パウロはキリスト・イエスの死を体にまとい、そのことによって、キリスト・イエスの命がその体に現わされることを願いました。それは、生きているのはもはやわたしではないというほどの祈り願いでもありました。神の愛が溢れ、神の愛が溢れ出ることによって、重く硬い死と滅びに輝かしい勝利を収め、わたしたちは勝ってなお余りがあると言うのです。神の愛は、溢れ出て尽きることがないのです。勝利の喜びのうちにパウロは言います。

38節、39節「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。この世で、時間的に、また、空間的にも、いつどこにあっても、神とあなたを結ぶ愛の関係、神の愛とのつながりの間に、何ものも入り込むことはない、と確信し宣言しているのです。

新しい時代がやって来るのです。死と滅びは何の力をも持ち得ない時代がやって来ると言うのです。そして、パウロは喜びのうちに、わたしたちの主キリスト・イエスにある「神の愛からわたしたちを引き離すものはない」と言います。

主の愛により、勝ちて余りある勝利者とされたのです。敗北し、迷い戸惑い、もろもろの不安に圧倒されたままではないのです。わたしたちは打ち勝ち、何よりもそれは、わたしたちを愛してくださるおかたによって言い表すことのできない、すなわち、すべてのことにおいて輝く勝利を収めているからです。

 

いつも「むさし小山教会」にご来会くださりありがとうございます。

神様の恵みと平安を心よりお祈りいたします。