「霊の結ぶ実」 ガラテヤの信徒への手紙5章16節~26節

「霊の結ぶ実は愛」と使徒パウロは述べました。

疫病の世界的大流行のためさまざまなことが制限され、また、大量の情報が流れて、わたしたちの現実社会に影響を及ぼす、そのような時が続いています。
空を見上げてみますと、時はすでに、立夏に入り、次第と夏めいてまいりました。あおあおとした緑、さわやかな風、気持ちのよい五月晴れの季節であります。

今日、五月の第二日曜日は母の日であります。この記念日の由来は、1908年にアメリカのウェスト・バージニア州にあるウェブスターという町の小さな教会でジャービス婦人の追悼記念会が行われたことにあります。
このジャービス夫人は26年もの長い間、教会学校の先生を務めた信仰の篤い人でありました。ある日曜日の礼拝で、ジャービス夫人が、モーセの十戒の中から「あなたの父母を敬いなさい」というところを話して「母の愛に心から感謝する方法を考え出す人はいませんか」と子どもたちに質問をしました。この日のお話を聞いていた娘のアンナさんが、1905年、母が天に召された後、その記念会には母が大好きだったカーネーションを沢山飾っていると紹介したので、それを聞いた皆が感動したのでありました。そして、そのお話を聞いた人がまた人に伝え、人々がまた人々に伝えて、ひとつの行事となり、記念の日となって行ったのでありました。今日、この日、母の記念日、また母の誕生日を覚えるという方々も、それぞれの場所にあって、どうか神様の祝福が豊かにありますようにと祈り願います。母の日の由来の中で、母から子へ、親から子へと「感謝する方法を考え出す」ということであったことに、子ともたちへの愛情を感じます。

と共に、その「感謝」という言葉を字引で引いていますと「ありがたく感じて謝意を表すこと」とあります。「ありがたい」というのは、なかなかありそうもない、ということであります。そしてそれは「この身にしみてうれしい」ということであったり、「ワクワクして楽しい」ことであったり、「本当に恵まれていてうれいしい」ということであったりします。

その意を、その心を、表すということをユダヤの人々は「歌う」ということで表現し、また、兄弟姉妹たちよ、共に「歌おう」と呼びかけています。

旧約聖書の詩編98編の1節にはこうあります。「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた」。
またその4節でもこう呼びかけています。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声を上げ、喜び歌い、ほめ歌え」。

喜び歌うというのは、人の感情、人の心の動きが先にあると言うよりは、喜びがないとき、また喜びとはかけ離れているときにもということが言えるかもしれません。「歌え」というこの「歌うこと」への呼びかけの根拠となっているのは、「主は驚くべき御業を成し遂げられた」ということであります。言い表すことが出来ないほどのすばらしいことが起きたということであります。

それは、日々の暮らしの中で起こった小さな一つひとつ、思い返してみれば、あのこともこのことも、また一ちょっとした一言も、小さな光輝く宝とも思えるようなことがある、そのことを「驚くべき」と言うことが出来るかもしれない。そしてまた、それと重ねて、ユダヤの詩人は、その民の歴史的出来事、エジプトの国で労苦の中に、捕囚、捕らえられ、繋がれて、制限されところから主なる神により脱出させられたということを抱き歌っている。それは「あなたがあなたであるため」であり「わたしたちがわたしたちであるため」でもあり、主なる神が救い出されたことを共に祝うためでありました。

主なる神は、出口をつくられたのであります。そのために戦略とも云える主なる神がお考えになられた方法をとられ、人々を捕囚から脱出させられたのであります。主は救いのみ業を果たされたのであります。

そして、そのユダヤの教えと信仰により育まれたパウロという人物は、ある時、救い主イエス・キリストの福音を宣べ伝える使徒とされました。それは「人々からでもなく、人を通してでもない」とパウロは言います。ただ「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」と言うのであります。

パウロはその出来事が身にしみて、また、常に抱いていたのでありました。すなわち、人々が神に立ち返ることの出来るように、その一人の人が赦され、また、すべての人々を赦すことが出来るように、十字架の死につかれた主イエス・キリストが復活させられ、パウロに現れたということであります。そして、多くの月日がたっても、パウロは、キリスト・イエスから離れなかったのでありました。それは「近くに思って」くださっておられるお方を、「近くに思う」ことでもありました。

今日の聖書、新約聖書のガラテヤの信徒への手紙、その2章20節でパウロは、こう述べています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。

パウロは「キリスト・イエスへの信仰によって」「キリスト・イエスの信仰によって」ということをくりかえすかのように、その心に抱いています。

それは、復活させられたキリスト・イエスという驚くべきみ業がこの「わたしにも」成し遂げられたという、それまで、ユダヤの律法に捉えられ、閉ざされていたそのようなこの「わたしにも」、言い表すことが出来ないほどのすばらしいことが起きたということでもありました。そしてそれは、周りにいた人々の目には見えないけれども、この人の「自由」をつくり出したのでありました。そして、パウロは、その出口に向かっての入口を指し示すのであります。

今日の聖書、ガラテヤの信徒への手紙5章16節から18節「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことが出来ないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」。

パウロが「言いたいこと」とは何かというと「霊によって歩みなさい」ということであります。ここで言う「霊」とは、聖なる霊ということであります。人の感情、人の精神というものはとても大切なものとして守り、育み、働かせなければなりませんが、パウロは、それらによってとは述べず、霊によって、聖霊の導きに従ってと言うのであります。「霊に従って歩む」とは、霊に属することを考えるということなのです。そして、その霊の思いとは、命と平和であります。この聖なる霊のみ思いである命と平和に反することは、まことの自由から離れることであり、それはすなわち、律法の下にいることだ、とパウロは述べるのです。律法のみによっては救われず、命と平和によって。聖なる霊に従って歩むことによって救われるのです。

パウロは、人々がとらわれていること、とらえらえられていることを「業」という言葉で述べます。
19節から21節「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もっていいますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」。パウロは厳しいようですが、明白なこととして、人々を惑わすことの多いこれらのことは、神の国を受け継ぐことはできないと述べるのです。

ここでパウロは、厳しい裁きを下す者としてではなく「うれい」から述べていると言えます。日本語の漢字で「優しい」という漢字は、人偏に憂いと書き記しますが、パウロは、人として憂え、人の哀しみという情緒をもって、心配をしているのであります。そしてそれが、彼の精一杯の優しさであったのです。そのように哀しみ、憂え、心配しながら、パウロは、命と平和への道筋を整え備えるのであります。

肉の業に対して、聖なる霊の結ぶ実。

22、23節「霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。

肉の「業」に対して、霊の結ぶ「実」です。「業」とは人の「行い」「行う」ということであり、「実」とはそのように「成る」ということであります。そして「成る」というのは、こちらが手を加えないのに、変わり、変化し、新しいものが現れ出るということでもあります。

聖なる霊は、生み出すのであります。よい土、よい根、よい幹、よい枝が、よい実を結ぶように、聖なる霊はよい実を結び、キリスト・イエスを証しするのです。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制は、キリスト・イエスを証しする霊の結ぶ実であります。そして、その実は、救い主キリストを信じる信仰の向かうところであり、信仰の実でもあります。そして、これらを否定する律法はありません。ここに、自由があり、命があります。キリスト・イエスが悲しみと憂えから出る出口を得させて下さったのです。

24節から26節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬばれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」とパウロは、キリスト・イエスに在って、ある人がこう言えばこうちらに傾き、またある人がそう言えば、そちらに傾くという人々に向かって、励まし、慰め、勧めるのです。

キリスト・イエスへの信仰が、人から人へと伝えられる、するとそこにキリストを証しする聖なる霊の結ぶ実が「成って」行くというのです。人が神に至るのではありません。神が人に至る道を神自らがお示しくださったのです。神は、霊の結ぶ実を通して、わたしたちにその御姿を現わそうとされ、その実を感謝しながら共に、喜びの歌をうたうのです。「霊の結ぶ実は愛」と。

わたしたちは、そのようにしながら、もともとあったものへと戻って行くのであります。そして、繰り返しこう歌うのです。「主はこの地上で驚くべき御業を成し遂げられた」と。

 

 

心身ともにご健康が守られますように。

神様の恵みと平安を心よりお祈りいたします。