「来たれ」 ヨハネによる福音書21章1節~14節

主イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

「緊急事態宣言」下の主の日の礼拝を、わたしたちはおささげしています。様々なことが制限される生活が続き、心も体も重く感じておられる方々も多くおられるのではないか、と思います。また 多くの働きの中で、重責を担っておられる方々の心身がこの時、守られ支えられますようにと、切に祈り願います

ユダヤの古代の詩人も旧約聖書詩編33編で、信仰による祈り願いを歌いました。

詩編33編18節から22節です。
「見よ、主は御目を注がれる
主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
彼らの魂を死から救い
飢えから救い、命を得させてくださる。
我らの魂は主を待つ。
主は我らの助け、我らの盾。
我らの心は喜び
聖なる御名に依り頼む。
主よ、あなたの慈しみが
我らの上にあるように
主を待ち望む我らの上に。」

飢えと死を「恐れ」としてすぐ目の前に置くことがある、そのような経験をすることがこの世であるかもしれません。しかしそのような時でも、「数」や「強さ」によって救われ勝利するのではないという信仰がここ歌われ、救いとは勝利は、主なる神の慈しみによると告白、表明するのであります。この古代の詩人は自らが立っているその立ち位置を、「主なる神が愛してくださっている」「主なる神が大切にしてくださっている」そして、「主なる神の慈しみ」に全身を置いていると言えます。

今、わたしたちは、この全身、このからだ全体をどこに置くのか、ということに色々とためらい、あれこれと思いを巡らしています。

それでも、主なる神は、主なる神の慈しみを待ち望む人に御目をそそがれると言うのです。 そして、この魂は主を待つ、すなわち「待つ」とは、「来られる方を迎えようとして時を過ごすこと」であります。主なる神が、用意してくださっているのは、魂を死と滅びから救い、飢えから救い命をさせてくださることだ、と言うのです。

主なる神が、その御手にお持ちになっておられるのは、「我らの助け」であり、「我らの盾」であり、倒れるのを支え、御手を添え、前方にお立ちになられ、飛んでくる矢を防いでくださいます。

このお方に、わたしたちの心は大きな喜びを得るのです。そして、古代の詩人は、「主よ、あなたの慈しみ、あなたの愛、あなたの大切に思う」その御思いが、「主なる神を待ち望む人々の上にあるように」と歌い、その信仰による祈りは「この地は主の慈しみに満ちている」という確かな岩の上に立って祈られているのであります。

主イエス・キリストは、ある時、弟子のペトロに「あなたは幸いだ」とおっしゃいました。そして、「わたしはこの岩の上に教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない」とおっしゃって、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる」。

「主の慈しみに満ちている」その信仰の歌を歌うことは、岩の上に立つことであり、この地上で天の御国につながる「鍵」でもあります。

このように、この力強いつながりがあり、また、満ちているのではありますが、つながりはなく、欠けているという人々の不安と人々の恐れにより、主イエス・キリストは、苦しみを受けられ十字架の死につかれます。主の慈しみから外れてしまっているその人々を救おうとされるためでありました。主イエスのご遺体は一度墓に納められますが、三日後に復活され、弟子たちに現れました。

そして、今日の聖書ヨハネによる福音書21章1節から3節、「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、 ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペテロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」。

エルサレムにて復活された主イエスは、弟子たちに、ティベリアス湖、すなわち、ガリラヤ湖においてご自身を表されたのでありました。

主イエスの復活を告げた天使は、驚く弟子たちにこう告げていました。

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。

ガリラヤは、主イエスの弟子たちが、主イエスによって招かれたその地でもありました。その地の空気を吸い、その地の光を浴び、また、日常の暮らしの音をその地で聞いていたのであります。その地で、これから人々を救い助けるため、苦しみを受けられ十字架の死に向かって行かれる主イエスは、弟子たちを招かれ、そして、復活の主イエスは、この地に戻ってこられたということを福音書は語るのであります。

それは、出ていった者が帰って来る、失ったと思っていたものが戻って来る、ということであります。なぜなら、この地は主の慈しみに満ちているからであります。

十字架の死と復活のあのエルサレムの出来事の後、弟子たちは、天使の言葉を胸に抱きながら帰り、いつもの場所で、いつもの通りに、戻っていたのでありました。

弟子の一人ペトロは言いました。「わたしは漁に行く」。彼はもともと漁師であったのです。 ガリラヤ湖畔で主イエスに招かれ、その弟子として様々な経験をいたしましたが、彼はつまずけば起き上がり、倒れればまた起き上がることを繰り返し、少しずつではありますが立ち直り、もともとの仕事としていた「漁に行く」と言うのでありました。

一緒にいた弟子たちはペトロの言葉に何かを感じ、また触れたのでしょうか、共感して共に動き、共に働くことを選び、「わたしたちも一緒に行こう」と言います。

そして、出て行き、湖に舟を出し、漁をするのですが、その夜は何もとれませんでした。自然を相手に漁をしていればそのようなこともあることはよく知っていたかもしれませんが、「わたしは漁に行く」と言って、出て行ったのにもかかわらず何もとれなかったのは、やはり「がっかり」でありました。夜を通して苦労したのに、何もとれなかったのです。

そして、その夜を通り、4節5節です。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた」。

ガリラヤ湖の岸に主イエスがお立ちになっておられる。

それは、あの天使が言った通り、また、弟子たちが主に招かれた時と同じように、その場に、その地に、おられるのに気がつかない。彼らは疲労困憊、疲れ果てたのでしょうか。苦しみ疲れたのでしょうか。得ることができず、心がすっかりすり減ってしまい、神経が消耗しきってしまっていたのでしょうか。あるいはまた、何かを得ることを追いかけ続け、夜が明けるのに気がつかないほどになって、目がかすんでいたのでしょうか。主イエスだとは分からなかった、認識することができなかったのです。

主イエスは、「子たちよ」と呼びかけます。「何か食べ物があるか」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。弟子たちは、それが誰だかはっきりと分からないまま応答しています。「何か食べ物があるか」と聞かれ、その夜は何も取れなかったので「ありません」と答えるしかありませんでした。

する6節、「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば、とれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」。何も得ることができなかったという弟子たちに、「舟の右側に網をおろすように」とおっしゃいます。そうすれば漁をする者たちに魚が与えられるはずだ、とおっしゃるのです。

舟に乗っている弟子たちは、主がおっしゃるように網を打ってみると、それまで何も取れなかったのに、あまりにも多くの魚を引き上げることとなりました。 そこはすでに満ちていたのです。そして、満たされていた、のであります。それは、あたかも初めからあったかのようでありました。

7節8節、「イエスの愛しておられたあの弟子がペテロに、『主だ』と言った。シモン・ペテロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ぺキスばかりしか離れていなかったのである。二百ぺキスは約九十メートルの距離です。「主イエスの愛しておられたあの弟子」とは、この福音書の著者とされるヨハネと言うことができます。

早朝、太陽がのぼり、光があふれだし、闇に光がのぼり出すころ、これは「主だ」と分かったのです。このわたしたちを愛し、大切に扱ってくださるお方を、再び見たのです。

「何もとれなかった」という者たちに、あまりにも多くのもものをお与えくださる主イエス・キリスト。

その在り方に、このお方は、主イエス・キリストだと分かったのです。すると、ペテロはあわてて上着を着て、湖に飛び込み、主イエスのもとに急ぎます。上着を着たというのは、主イエスに対するペトロの熱い愛情と敬意を表していると言えます。ほかの弟子たちは、湖に飛び込み主イエスのもとに近づこうとするペテロを脇に見ながら、魚を引き上げました。

船で戻ってきて9節から11節、「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。シモン・ペテロが船に乗り込んで網を引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く取れたのに、網は破れていなかった」。

復活の主に再びをお会いする喜びと共に、湖から岸に上がってみると、そこには、すでに炭火がおこしてあって、魚とパンがのせてありました。それは、復活された主イエスがご自身の朝食としてのせてあったものでしょうか。すでにのせてあったのです。

いずれにしても、主イエスは食事の準備をされていました。主イエスが、「今とった魚を持ってくるように」とおっしゃいます。その炭火の上に、その食事の上に、加えるように促されるのです。百五十三匹という多くの魚がとれたのは、主の御言葉に従い、すると、そこに変化が起き、そのことを受け止めつつおこなって行くと、大きな祝福に変わったということであります。

それは「何のために」「何故行なっているのか」ということから離れないで、その場にあり続けることにより与えられる祝福でありました。そして、その場は、湖面に浮かぶ舟のように波に揺れ動くというところにおいてでありました。しかし、そのところにおいて、彼らは変化を受け入れ、恐れず、その変容の中を進んで行くと、大きな祝福に変えられたのでありました。

12節から14節、「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれでも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」。

主イエスは朝の食事に招かれました。それは、新しい一日が始まる時であり、その日、生きる命をいただく時でもあります。朝がその日を決めるように、主イエスと共にする食卓、 また、食卓のように主イエスと共にある者は、人生を変えます。主イエスは、食べ物を差し出されます。糧をお与えになる主です。

主イエスの祈り願いは、一緒に食事をするように、共に生きること。生きることが困難だと思える時にも、その時だからこそ共に生きることに呼び出されるのであります。

主イエスが弟子たちに「三度」現れたのは「完全」に現れたことを表しています。すでに、この地において、完全に復活されて、この地は主の慈しみに満ちているのであります。「さあ、来て、共に生きよう」と主はおっしゃいます。

 

今日も、「むさし小山教会」に起こしくださり、ありがとうございます。

神様の恵みと平安を心よりお祈りいたします。